インタビュー対象者紹介
仁勇里(町名)
洪銘鎮町長
洪銘鎮町長は高校卒業後、仕事を探しに一人で台北に行き、銀行に勤めてから現在まで士林区に住んでいます。現在、仁勇里の町長を13年連続で務めており、経験豊富です。
今回訪れた仁勇里は、士林の51の行政区の中で1位にランクされており、多くの政治・経済・教育などの重要な場所として位置付けられています。当初は、ここに衛生局や地政事務所(行政書士事務所)が設立され、今回取材した場所はかつての旧町役場であり、外観は今でも古い建築様式が保たれています。エレガントなバロック様式のデザインと、明るい日光を取り込むレトロな窓枠が、まるで私たちがタイムスリップしたかのように当時の賑やかな光景を想像させます。洪町長は仁勇里の豊かな歴史背景と特別なポストに非常に誇りを感じています。
インタビュー中、町長は熱心に士林の古くからの住民との共通の思い出を私たちに共有してくれました。一世を風靡した武闘派スターから、学生時代のお気に入りの夜食の名所まで、彼の話しの中から士林への深い愛情と情熱を感じることができました。
時代の変化につれ、人々の生活様式が多様化していますが、町長は現代と過去の時代をつなげることが大切だと考えています。しかし、同時に心の中で過去の思い出に残る風景や素朴で昔ながらの美味しいデザートが、時の流れとともに消え去っていくことに少し寂しさを感じていると話してくれました。
東吳大学
朱廣興教授
長年にわたり東吳大学の日本語文学科で指導している朱廣興教授は、留学期間を除いて、士林で生活を送り、士林の数十年間の変化を目の当たりにしてきました。かつて目立たなかった小道であった中正路が今では各地とつながる主要な道路に変わり、忠誠路にデパートが建設され、望星橋の拡幅、双渓路に歩道の増設、学校周辺の建物など、たくさんの変化がありました。これらの変化について、朱教授は時代の変遷、士林の変化が最初の記憶とはだんだん異なっていることに寂しさを感じます。朱教授は芝山岩の土地に詳しく、ここは優れた生態環境で、多種多様な植物やリスが木々の間を行き来しているのを見ることができます。そして土壌には貝化石を含んだ堆積岩があり、これらの要素が教授を魅了し、毎週芝山岩を訪れ、大自然を楽しむためにのんびりと散歩を楽しんでいます。芝山岩の歴史について話す際に、朱教授は六氏先生の墓の起源や、日本統治時代と民国政府が台湾に移った後の政策が士林の人々の政府に対する態度がどのような変化をもたらしたのかについても触れました。また、東吳大学内にある錢穆の旧宅も、過去の政権交代の中で波乱を引き起こしました。
士林のグルメについて、朱教授は子供の頃に外国の食べ物についてあまり知識がなく、現代人がよく知っているプリンやサラダでさえ、その当時は聞いたことがありませんでした。これらの食べ物に初めて出会った時、とても新鮮で驚き、その味わいが非常に印象的でした。現在の朱教授はそれ以上に素晴らしい食べ物をたくさん食べてきたにもかかわらず、やはり子供の頃に初めて食べた外国の料理の味を超えることはできず、忘れられない思い出の味なのです。
士林在住
李心瑜さん
幼少期から士林で育ち、学生時代もよくこの場所に遊びに行ってた大学生の心瑜さんは、地元士林のグルメについて非常に深い知識を持っており、士林の人たちしか知らないであろう店を紹介してくれました。例えば:林家麺神、及品鍋貼(餃子)、士林媽祖廟口素食館(ベジタリアン)などです。(詳細:グルメ編をご覧ください)
さらに、士林夜市でのお勧めのグルメについても共有しました。心瑜さんは、「士林夜市は私にとって家のような場所です」と話していました。なぜなら、家が士林夜市の近くにあり、暇な時には夜市の近くを散策し、彼女にとって、夜市は非常に親しみやすい存在なのです。
インタビュー中、心瑜さんは幼少期の思い出として、美崙公園の再開発、陽明劇場の閉館、児童新楽園の誕生など、これらの士林の変化が彼女の成長過程の一部だったと語りました。
士林での多くの変化の中で、かつて士林の2番出口にあった「水世界(水遊びができる施設)」は今でも非常に懐かしいと語りました。子供の頃、母親は夏によく彼女を水世界に連れて行き、暑さを和らげてくれました。そのため、毎年猛暑の季節のなると、心瑜さんはこの場所を思い出します。水世界は彼女の幼少期の素敵な思い出でいっぱいです。
明勝里
張永棟町長
張永棟町長は、民国48年に台北市大同区(原建成区)で生まれ、結婚後、妻と共に士林区に住むことを決め、それから30年の歳月が経ち、2年連続で町長を務めています。町長としての任期中、地元の人々への奉仕の精神を持って、地域の生活ニーズや交通インフラ、観光文化など独自の洞察を持っています。
インタビュー中、町長は士林の過去から現在までの変遷において、地域の現状と将来の展望を多く共有してくれました。また、自身のお気に入りの士林の観光スポットや店をお勧めしてくれました。時の流れで一部の場所は姿を消してしまったかもしれません。自身の体調の関係で訪れる機会が減ったが、町長との会話から、彼の地元への愛情と、関心を持っていることが伝わってきました。
「実際、士林には多くの素晴らしい、貴重なものがありますが、みんながあまり知らないだけです。」町長は人生の大半を士林の発展と成長を長い間見守ってきたと言い、今後も熱意を持って士林区の未来のために奮闘し、この土地の素晴らしい価値を継続的に伝えていくつもりです。
許聚茂薬局店主
許鴻銘さん
このインタビューでは、士林で百年以上の歴史を持ち、多くの人々の成長を見守ってきた老舗である、1890年に開業した許聚茂薬局の店主、許鴻銘氏にお話を伺いました。
店主によると、この店の歴史は、彼の曽祖父である漢方医の時代にさかのぼります。曾祖父の祖廟は清朝の時代、金山の金包里にありましたが、後に金山での生計が困難になり、後に士林に移り住み、それ以来、士林地域に深く根付いて営業してきました。
店主は、漢方薬局と士林のつながりや歴史について説明し、士林夜市の近くで育った自身の幼少期や慈諴宮についてもいくつかのエピソードを話してくれました。店主の説明により、士林の姿が次第に鮮明に浮かび上がってきました。
店主の話の中で特に懐かしむ士林のこととして挙げたのは、子供のころに感じた地元の温かさです。店主は、子供のころは友達と一緒に隣の家の屋根に登って遊んだり、近所のお兄さんたちが麺を作って振る舞ってくれましたまた向かい側にはパン屋があり、2階のパン工場で働く職人たちは彼らが成長するのを見守り、遠くからパンを投げてくれることもあったと述べました。これは彼の幼少期の楽しい思い出でした。残念ながら80年代以降、士林の多くの人々が地元を離れてしまったため、彼の幼少期の思い出は永遠に残りますが、それは彼が一生忘れることのできない思い出です。
小黑先生
台北市北投区出身で、学生時代のほとんどを士林区で過ごした小黑先生は、士林の地元の人々と同様に士林の知識が豊富です。学生時代を振り返ると、下校後によく友人たちと訪れた場所は皆が知っている士林夜市や現在は存在しない都會叢林(都会ジャングル)です。社会人になってからは生活の中心が士林区から離れましたが、ここには彼の成長と学生時代のさまざまな思い出が詰まっています。
インタービュー中、小黑先生は士林区の変化の速さに言及しました。商店の入れ替わり頻度が非常に目立ち、士林MRT2番出口の朝食店やパンデミックの影響で閉業せざるを得なかった茉莉漢堡(ジャスミンハンバーガー:店名)などがそうです。また、士林夜市も現在では大きな変化があります。一部の変化が残念ではありますが、以前好きだった場所は今では記憶の一部となってしまいました。しかし彼は、士林が変化と進歩を期待できる場所であることを示していると感じており、そのために新しい変化を追求し、進化し続けることが大事だと考えています。
東吳大学
楊奕屏先生
楊奕屏先生は現在、東吳大学の日本語文学科に勤務しています。4歳の時、父と共に台北へ移り、家族全員で士林に移住してから、士林での生活は既に57年以上になります。
彼女は蔣公の死と全国民が喪を服す時期を経験し、士林で最初のアメリカンスタイルの手作りピザレストランで食事を楽しんだことや幼い頃に友達と遊んでいた野原が賑やかな通りに変わっていくのを見てきました。士林区は楊先生にとってただの生活の中心地だけでなく、たくさんの大切な思い出があります。「特に父の世代は物を特別に大事にしていたと感じます。」当時のお年寄りたちは何でも自分で手作りすることができ、水電修理はもちろん、車の修理も彼らには難しくありませんでした。彼女の父親の多才さを思い出すと、一家の大黒柱でありながら、小さな竹の切れ端でさえ大切に保管していた父親のあまりにも物を大事にする精神に楊先生は苦笑してしまいました。
そのような風土の下で、近所の人々も非常に協調性があり、放置された土地を野菜畑にしたり、河川堤防でさえ例外ではありません。子供の頃の生活を思い返すと、楊先生はそれがとても温かく、面白いと感じています。
楊先生は率直に「人情味が失われた。」と言い、実際に彼女が一番懐かしく思うのは、近所の人々が互いに気にかけあい、助け合うことでした。親今日のように目まぐるしい生活スピードに伴って徐々にこのような風習、人間味が忘れ去られていることが残念だと言います。
義信里
許立丕町長
許町長は1977年に生まれ、士林の小西街で46年間生活しています。彼は士林のグルメが好きで、特に一番のお気に入りは阿亮麺線です。5元から現在では60元まで値上がりしているが、町長はそれでも忠実な顧客です。
士林夜市を思い出し振り返りながら、町長はいくつかの現在は存在しない場所を挙げました。その中には少年街、フォークソングレストラン、恋人通りなど、これらの場所はかつて学生たちがデートする人気スポットでした。時間があれば彼らはバイクで陽明山に行って夜景を楽しんでいました。町長は当時のフォークソングシンガー、王瑞瑜や王海玲、南方二重唱などを紹介し、彼はフォークソングが士林の人々の思い出と記憶であり、士林の一部だと述べました。
士林のエンターテイメントに関して、かつては5つの劇場がありました。町長は思い出し:「陽明劇場では新作映画が上映され、立峰映画館では二回目の上映がされていました。」初期の生活環境に高い欲求はなく、時にはただ野外でスクリーンを張って映画を上映するだけで、皆が視聴を楽しんでいたため、多くの劇場がありました。しかし、現在人々はより高い環境と快適な施設が求められ、都市には多くの大型映画館があり、士林の劇場は次々と閉鎖されました。
インタビューを終える前に、町長は士林夜市の未来の計画についても共有しました。彼は日本の企業との協力を通じて士林夜市の知名度を向上させ、夜市内に雨の日でも楽しい散策ができる日本の「狸小路」を模倣して、特別な場所を作りたいと望んでいます。
慈諴宮主委
江運永さん
江さんは第6代と第7代の宮主を務め、妻の実家が士林にある縁から、今では30年以上この地に住んでいます。慈諴宮のについて非常に精通しており、インタビューの冒頭で、慈諴宮の歴史と名前の由来などに関するさまざまな話題を紹介してくれました。多くの人が知らないかもしれませんが、慈諴宮の「諴」には3つの象徴が含まれています。一つ目は、誠実さと真摯の意味。。二つ目は、民族の調和を願う意味。三つ目に、静寂の意味です。その中で、宮主は「民族の調和」が慈諴宮の名前の重要な意味であると考えています。宮主は慈諴宮の「対場作」について説明しました。以前、地元の人々が高度な技術を持つ師匠を紹介し、寺院の正中央を境に2つの派閥の師匠が競争的な方法で、それぞれ側面を完成させることから始めました。これにより健全な競争が促進され、各々が最も優れた技術を提供するよう努力しました。慈諴宮の対場作で最も明白な違いは、寺院の正面入口から入ってくる際の2本柱の下の石と、左右の2つの梁柱に、左右の異なる大きさが特徴です。
インタビュー中、宮主は近年、慈諴宮に若者を取り入れたいと考えておりれ、寺院を宣伝する活動を通して、慈諴宮独自の魅力的なアイデアを見つけ出し、独自の道を歩むことを望んでいると述べました。また、宮主は冗談交じりに、「慈諴宮への訪問は、あなたたちの知識を増やすことになります。あなたたちは媽祖と縁があるので、若い人々の創造的なアイデアを私たちに提供してみてはどうでしょうか?」と言いました。若い世代が持っているアイデアをア、寺院と協力して異なる雰囲気をもたらす手伝いをしてほしいと願っています。
【関連リンク】:
慈諴宮の歴史
「対場作」の写真
福中里
王德利町長
士林区に四十年以上住んでいる王德利町長は、士林の初期の様子について熱く語りました。基河路がまだ大きな河であり、台南海鮮会館(レストラン名)と士林運動センターを結ぶ吊り橋が存在した時から話し始め、地元の人々だけが知っている貴重な歴史的な思い出をたくさん共有しました。中正ボウリング場で友人と一緒にチームを組んで大会に出場したり、外双溪で釣った魚やエビをその場で醬油に漬けて焼いたり、士林夜市のアイスフルーツ屋さんで暑い夏を過ごしたり、初期の劇場では、夜市で買ったスナックを食べたりしたことなど、町長はたくさんの思い出を共有してくれました。
士林区の町として、王德利町長は地区の福祉に尽力しています。年始の元宵節からこどもの日、母の日、端午節、父の日、中秋節、重陽節、クリスマスなど、、、さまざまな祝日やイベントを通じて、地区の人々が交流する機会を提供しています。そして、彼が最も誇りに思うのはこどもの日の「子供たちの隣人さん」イベントです。毎年イベントの規模が拡大し、近隣の人々も歓迎し、一緒に盛り上げています。
福志里
邱邱田町長
邱邱田町長は、民国50年、当時「林仔口」(現在の台北市士林区福林里の中部と福志里の最西端地域を除く)で生まれました。士林区での生活は学生時代も含め40年以上にわたり、ほとんどの時間を士林で過ごしました。そのため、町長は地元にもっとも近い視点から、私たちに彼の故郷である士林のさまざまな物語を共有できるのです。
町長によれば、日本統治時代には福志里は広大な田園地帯にしかすぎませんでした。後に移民の開拓により士林区全体が発展し、福志里は台北から陽明山への主要交通路と天母地区を結ぶ交通の要衝であることから、人口が徐々に集まり、現在では士林区内の51の地区の中で最も人口が多い地域の一つです。インタビュー中、町長は地元の有名店や興味深い話を共有しました。特に士林の昔の思い出について話すとき、町長は熱く語ってくれました。。町長が熱心に士林のさまざまな側面を語る様子を見て、多くの場所が現在は存在しないものの、私たちもかつての士林を訪れてみたくなりました。
インタビューの終わりに、士林区で最も好きな場所はどこかを町長に尋ねると、彼はためらうことなく答えました。「それは事務所の後ろにある志成公園です。」町長がこれまでに経験した人生の多くの時間の中で、外の世界の激動も経験しましたが、彼の故郷士林への愛と誇りは他の場所とは比べ物になりません。
士林在住
鄭さん
士林の地元民である鄭さんは、学業や仕事で最も多くの時間をこの土地で過ごしました。そのため、長年士林に住んでいる地元の人々だけが知っている人文景観をよく知っているため、インタビュー中に士林の日常生活に関連する多くの話を共有してくれました。
鄭さんは観光客が知らない地元士林の穴場のお手軽な料理が食べられる店をたくさん紹介しました。いくつかは私たちが味わうことができないものもありますが、それは彼女が何年も忘れられない美懐かしい味です。その他にも、士林夜市がかつてピークを迎え、メディアが報道をし、夜市と言えば士林夜市を思い浮かべる時期があったが、一部の夜市が地下化し、街路が暑さと湿気で来客を減らし、さらに衰退させる原因となったと述べました。夜市の状況が以前とは異なるにも関わらず、鄭さんは夜市でかき氷を販売することが非常に利益のある仕事であり、当時「かき氷を売ることが第一で、医者になることが第二」と言われるほどでした。そのことから、夜市が如何に栄えていたかが伺えます。
また、鄭さんは士林の建築や街並みの変化についても話しました。例えば、科学教育館や天文館、子供の新しい遊園地がある基河路は、基隆河がかつては士林製紙工場が大規模であったが、衰退して、ショッピングモールに改築される予定です。また、多くの自動車店が承德路に集まる理由など、これらの変化に対して彼女は時間の流れの速さを感じました。
インタビュー中、鄭さんは何度も士林への愛情を表現しました。信義区など他の地域と比べて発展はしていないかもしれませんが、長年にわたる記憶や生活の思い出が彼女に士林への強いアイデンティティと帰属感を持っています。彼女は現在の士林の建築のほとんどが今や古くなっているにもかかわらず、まだ心地よく、住みやすい場所であると私たちに語ってくれました。
錢穆旧居
秦照芬執行長
錢穆旧居の執行長として活動している秦照芬先生は、インタビューで、かつて錢穆氏の奥様が彼女にこの役職を務めてほしいと望んでいたと話しました。当時彼女が台北市立大学の教授だったころ、文化局の入札を通じて、錢穆旧居を成功裏に取得しました。そこで、秦先生は冗談交じりに、「もし将来、私がやめることになったら、錢穆氏の奥様にお線香をあげ、辞職する旨を伝えます」と語りました。
インタビューの中で、秦先生は陽明病院の近くには多くの美味しい食べ物があることに触れ、友達が訪れたときには、士林夜市で焼き鳳尾、別名、焼き鶏のお尻を食べます。さらに、秦先生は天母にある士東市場が台北市で初めてエアコンが設置された伝統市場だったことを共有し、私たちを驚かせました。
かつて士林の特徴的な職業について、秦先生は「士林名刀」という、鍛冶屋を主体とする有名な業界があったと述べました。同時に、士林には不良少年が多く、鎌のようなナイフを持ち歩き、あちこちで振り回していたため、少し怖かったとも話しました。
士林でのお気に入りの場所について、秦先生は東吳大学の後方にある故宮博物院が彼女の最も好きな場所です。秦先生自身が歴史研究の専門家であり、国慶節の前後に、故宮博物院で特別展が開催され、歴史や文物に興味を持つ人にとっては大きなごちそうです。さらに、予算に余裕がある場合は、故宮晶華レストランで「翠玉白菜」と「多宝閣の点心」を注文することをお勧めします。、中華文化の体と心にもたらす感銘を受けることをお勧めしました。
神農宮祭祀主任
簡有慶先生
簡先生は、幼少期から士林で育ち、淡江大学の歴史学部を卒業し、大学院では国立台北大学の民俗芸術研究所で学びました。現在は、専門的な歴史背景を持ち、長年にわたり民俗信仰の分野で研究を重ねてきた簡先生が神農宮の祭祀主任を務めています。士林区の歴史に関しては、詳しい知識を持っていて、インタビューの間も親親切に、士林のかつての風景について語ってくれました。
士林について、簡先生は地名の旧名の由来など、多くの事を解説してくれました。例えば、歴史的な出来事や周辺の風景が由来して、先祖たちが名付けたこと。神農宮についても、その創設の経緯や、簡先生はこの廟に先祖が新しい土地を開拓する重要な役割を果たし風風や雨を祈り、人々の心を安心させる役割があったという事や、それが故に台湾には多くの同様の性質を持つ廟が存在しています。その他にも教育、政治、経済としての機能を果たし、人々の生活と密接に関わっています。特に、元々神農宮は現在の場所ではなく、下樹林にあり、主神は「土地公」で「神農大帝」ではなかったとも指摘しました。建築は数度にわたりリノベーションされ、今の姿になったのは多くの変遷を経てのことであると言及しました。
インタビューの中で、社会的な役割としての自身のアイデンティティについて、簡先生は自身を「宗教学者」ではなく「民俗学者」と定義するべきだと主張しました。なぜなら、簡先生が研究してきた分野は宗教そのものにとどまらず、中華人が長い間積み重ねてきた文化や慣習にまで及んでいるため、「民俗学者」として呼ぶ方が関連する研究と仕事についてより正確であると述べました。また、廟の文化を若者向けにどのようにして宣伝するかについて話した際、簡先生はこれが非常に重要な部分であると指摘しました。宗教は高齢者の文化だけに留まらず、廟側もインターネットを積極的に利用し、Facebookでイベントを宣伝したり、クリエイティブな製品をデザインしたりして、若者のトレンドに対応する方法で人々を引き付け、廟の文化がより広く長期間にわたって受け継がれることを期待しています。
簡先生の説明を通じて、士林の廟や過去の歴史について、ウェブ上では知ることができない廟の情報や物語を多く学ぶことができました。また、簡先生はこのプロジェクトを通じて、より多くの人々に士林の文化を知ってもらい、広めることができることを望んでいます。
旧佳里
陳明松町長
士林区の古いコミュニティの一つである旧佳里の陳明松町長は、地元士林の視点から私たちに士林の過去と変遷を紹介してくれました。
旧佳里について、陳明松町長はここが士林で最初に設置された地区であり、多くの道が狭いと言います。これは、士林の発展に伴い、今日まで維持されてきた象徴であり、ここに訪れる人々はただ街路に立っているだけで、まるで歴史を旅するかのように感じることができ、時の痕跡を通じてかつての士林の姿を見ることができます。
町長はまた、私たちに芝山岩の伝説や昔ながらの祭りについて多くの話を共有し、彼が子供の頃に訪れた多くの劇場や当時外国食品を販売していた店についても話してくれました。地元のグルメについて話すと、多くの店は時代とともに消えてしまい、もう二度とあの頃は戻ってこないが、かつての士林の景色や物語が伝わってきたのではないでしょうか・・・。